「オバサン」と言うパワーワードは、いくつくらいから当てはまるのか。
私が新卒で入社した30年程前は30歳の先輩のことを「オバサン」だと思っていました。
しかしながら令和の現在は30歳はまだまだ若く、実際に自分がその年代を通過しても
当時感じていたようなオバサン感はなく(むしろ50代の今から見れば子供!)、あっと言う間に過ぎ去りました。
子供がいれば年齢関係なく、子供達から「おばちゃん」と呼ばれる機会は増えるかもしれません。
それでも子供がそばにいなければ、一人の女性としてそこに存在しているに過ぎません。
個人的に「オバサン」ってものすごいパワーワードだと思うのです。
全てを否定し「オバサン」ってカテゴリーに封じ込めてしまう。
それは個性も、その人が懸命に生きてきた背景も、これからの可能性も
全てを否定してしまう威力を持っています。
以前、通っていたジムで知人と話していた時に
「これから●●やってみたいと思ってるんだよね」
と言ったら
「いいなぁ。前向きでさ。私、もうオバサンだから」
そのパワーワードが飛び出した途端に
会話は前向きな内容から後ろ向きになり、発した本人を慰めるような?
妙な空気になり、話も違う方向に流れていきました。
反対にここ?ってタイミングで
「私オバサンだから言っちゃうけど」
と相手のことを全く気遣わない、思ったことをそのまま発言して周囲の空気を凍りつかせていました。
その時に
「オバサン凄い!」
って思ったのです。
「私オバサンだから」
って一言で、その場にいる人の顔を引きつらすことができる。
何とも言えない空気にしてしまう。
まさにパワーワード。
「私オバサンだから」と言われたら、どう返したら良いのか悩みませんか?
「そんなことないよ~」待ちなのか
「そうだね」と肯定して欲しいのか(でも肯定したらキレられるよね、きっと)。
いずれにしても「私、オバサンだから」って言葉は全てを完結させてしまう威力を持っています。
これは個人的な考えですが、
「私オバサンだから」と言ってしまう人は自分の老いと上手く付き合っていけていないのだと思います。
人が年を取ることは当たり前のこと。
そして年を重ねていくにつれ、昔と違うことが多々生じます。
体型の崩れが目につく
皮膚の張り
髪の毛のうねり、白髪
昔のように気力がわかない
などなど
何もかもが昔と違ってきます。
数年前までなかった皺やシミ、白髪を見つけてため息をつきたくなるかもしれません。
それであるからこそ、年を重ねた分だけ変わっていくことを受け入れて上手く付き合っていく。
自分の身体の調子を見ながら、食事や生活習慣に気をつけたり、時には身体のメンテナンスをしたりして、
何十年も自分を支えてくれている自分の器を大切に育んでいく。
新しいことを始める時も、自分のペースで楽しく続けていく。
若い頃は外に向きがちだった自分の意識を、自分自身や自分の内側に向け、
自分を大切にしながら成熟していく。
大人の時間は長いです。
長い時間をかけて変化を楽しみ、慈しみながら成熟させていくのが大人なのです。
ですが
「私オバサンだから」
と言う言葉は一種の免罪符。
「オバサンだから調子が悪くて当たり前」
「オバサンだから相手のことを考えなくてもOK(割り込み、とかズケズケ言うとか)」
「オバサンだから今さら●●なんてできない」
「オバサンだから愚痴ばっかり言ってもOK」
と、「オバサン」と言う言葉で全てを完結させてしまい、そこに発展はありません。
自分の老いを受け入れて、自分と向き合ったりメンテナンスをしていくよりも
「オバサン」と言う概念で自分を括ってしまった方が楽です。
そこには
「オバサンだから仕方がない」
「オバサンだから当然」
と諦めと開き直りしかないからです。
「オバサン」は年齢関係なく、自分で自分をオバサン認定した時からオバサンと言う種類の生き物になるのです。
年を取ることは心が豊かになっていくことです。
それぞれが様々なことを経験し、何かにとらわれることなく自由に自分の人生を謳歌することができます。
しかしながら「オバサン」と言う言葉を使った瞬間から「ただのオバサン」と言う人種になってしまう。
自分で自分をオバサンにしてしまう呪言葉です。
とは言っても、ふとした瞬間に
「自分も年をとったな」
と感じることは誰にでもあります。
そんな時は、心の中でそっとつぶやき、そんな自分も受け入れましょう。
強い自分も弱い自分も受け入れられるのも大人の強みです。
若い頃は受け入れられなかったことが受け入れられるようになるのも成熟した大人の特権。
オバサンになってしまうのはもったいないですね。